なぜ人を殺してはいけないのか 〜サピエンス全史〜
サピエンス全史を読んだ。
地球、人類、動物などさまざまな角度から歴史を紐解いており、当たり前の前提として語られる事項に疑問符を投げかけており非常に共感するところの多い一冊だった。
特に、人は自分の主義以外の主義を否定する、という所は日々ぼんやりと感じていたことや考えていたことが文字に落とし込まれており、強く共感した。
共感した具体的な内容の一部を以下に記載する。
西欧民主主義国家に住む人は、口減らしの為に子供を間引いたり、老人を殺したり、といった事に嫌悪感を抱き、未開の人種であり正すべき、と考えることだろう。
これは、とある部族からしてみれば、昔からある風習、文化、伝統だったりするわけだが、人の命、個人の人権は何より尊いとする民主主義に住むひとたちには受け入れがたい事象である。
だが、民主主義を受け入れている人たちの多くは資本主義の社会に生きている。資本主義とは、金持ちが豊かな生活をして、貧しい人がゴミを漁る生活を、是とする主義である。
例え、その貧しい人たちが、貧しさを苦にして死んだり、病気が治療できなかったとしても、資本主義においてはやむを得ない事象と整理される。
一度戦争が始まれば、軍需産業は潤い、それらの企業群は豊かさを享受することとなる。その兵器によって大量の人が死ぬかもしれないにも関わらず。
この資本主義を是とする民主主義の一体どこに、上述の「未開の人種」を自分達の主義で断罪する資格があるだろうか。
まさに、資本主義・民主主義が他の主義を断罪している例が中東である。イラク戦争などは、断罪しつつ石油資源といった経済的メリットを得るための戦争だったと言えよう。
話がそれたが、サピエンス全史は日頃感じていた違和感を腹に落とす意味でも非常に興味深い一冊である。
ちなみに、タイトルになぜ人を殺してはいけないのか、という問いを掲げたのは、この主義主張に深く関わってくるからである。
この問いは、小学校や塾の先生などが子供達から聞かれて、人に叩かれると痛いから、とか法律で決まっているから、何も考えていないことを子供にバラしてしまうような、大人として恥ずべき回答をしがちな問いである。
この問いは、問いそのものが曖昧な為、様々な角度から回答する必要がある。
まず、人を殺す、というのは人が人を殺すことである。この言葉が意味するところは、人が物理的に、その人の生命をたつ事は、道徳的、法律的、文化慣習的に可か不可かという問いに分解出来るだろう。
①道徳的に人を殺していいか
→良いと答える道徳は存在しない。ただし、ドストエフスキーの罪と罰の話に出てくるように、高利貸しで人を苦しめる婆さんを殺した青年は有りか、無しか、というデッドロックにハマる。
②法律的に人を殺していいか
→治安維持の観点からどの国も理由なき殺人は認めていない。但し、制度としての死刑は世界各国に存在する。また、戦争では自衛権等の名の下に当然のように人を殺しても法律では裁かれない(つまり認められている)。
③文化慣習的に人を殺していいか
→文化次第。上述の未開の部族の例のように間引きが必要なのであれば、殺人は文化慣習的に正当な行為である。
①②③はいずれも物理的に人を殺す、という話だが、人は物ではなく精神と身体が合わさって人である。
では、精神的に殺して良いか悪いか、という問いに変えてみれば、世界のあらゆる場所で、人殺しが起こっており、良い悪いとか論じてる場合じゃないと言えるだろう。
例えば会社で精神的に追い詰められて、自殺したり、求めている未来を実現出来なくなる(その人が人として有りたい姿を消される)といったことは、当たり前のように起きている。
思想家のキュルケゴールは死に至る病、それは絶望である、と著作に記した。つまり、絶望し回復できない人というのは死んでいるも同然であり、会社や人間関係においてはその絶望がとある瞬間に生まれるのである。
以上、物理的にも精神的にも、人が人を殺すということは起こっている。
こういったことを書くと、私を血も涙もない悪魔だ、人が人を殺していいはずがない、良いか悪いかを論じるような心をもっている時点でアウト、といった考えを持つ人もいるだろう。
こういった人は日本社会に適応するように育てられた、子羊のような人々であり、考える習慣を持っていない為、自らが教え込まれた主義主張を外れると思考停止し、考えを巡らす人達を排斥しようとする。
これぞまさに、サピエンス全史で取り上げている他主義の排除、攻撃に該当するだろう。
人を殺すのが良い悪いとか、戦争反対とか、問題をザックリ纏めて思考停止してはならない。
メディアの言葉をただただ信じるのもいけない。
人類が蓄積してきた知恵は歴史にある。知恵を共有する手段は書物にある。
大切なことは、社会の動きを知り、幅広い考えを休む事なく探求し、物事を分解して深く本質的に考え、主義主張の枠にとらわれず自分なりの考えを持つことなのである。
以上
大企業に勤務するサラリーマンで、M&Aを手がけたり、世界を飛び回ったりしている。ぬるま湯に浸かって、飼い慣らされているサラリーマンが大嫌い。会社と契約関係にあるプロとしての自覚を持ち、日々ハイパフォーマンスの極みを目指している。歴史を学ぶことは未来を知ること、を掲げてしばしば世界を旅している。最近は独立して生きる力を身に付けるべく、資産運用に精を出している。好きな言葉 「人生の本舞台は常に将来に在り」
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