死刑制度を廃止すべきでない理由 ~麻原彰晃らオウム幹部の死刑に思うこと~
麻原彰晃含む、オウム真理教のメンバー7人が死刑となった。
世界約190か国中、先進国と言われる国の多くを含む約140カ国が死刑を廃止している中で、日本は世界に逆行した動きをしている、といった論調の報道がなされている。
また、地下鉄における世界初の毒ガステロの犯罪者達が死刑の対象となった事もあり、海外のメディアの関心もきわめて高い印象である。
今回の死刑は7人同時という事もあり、大きなニュースとなっているが、そもそも死刑は存続するべきなのだろうか。
私は廃止するべきではないと思うし、寧ろ死刑を発展させた刑罰の導入が望ましいと考えているが、その考えを以下に述べていきたい。
世界的トレンドとも言える死刑廃止の波に乗る必要はない理由
まず、世界的に死刑が廃止されつつある傾向にあるのは間違いない。韓国のように、死刑制度は存在してきたものの、制度を実施しないことで実質的に死刑を廃止する国が増えつつある。
死刑は、国家が戦争以外で、人の命を合法的に奪う、という意味では、相当に暴力的な行為である。懲役他、あらゆる刑罰はリカバリーが効くが、死刑は当人の命を絶つため、正に極刑の1つと言えよう。基本的人権の尊重を前提とした自由と民主主義が広がる現代世界においては、受け入れ難い行為とも言えるので、死刑廃止というトレンドに各国が乗りやすい環境があるのは間違いないだろう。
一方、刑法とはその国の文化的背景や考え方に基づいて設定されるものであって、死刑は現時点で日本人に広く受け入れられている発想であり、他国が止めているから、やめるべき、という発想は誤りである。
死刑には文化的背景がある
各国の憲法や法律などは、理由もなく設定されたりはしない。必ず文化的・歴史的な背景があり、それぞれの国民がある程度納得するルールになっているものである。
では、死刑をほぼ廃止している欧州はどういう文化的・歴史的な背景があるか。そもそも、欧州のほとんどの国はキリスト教である。キリスト教は一神教であり、唯一にして絶対の神がいる。そして、神の子であるイエスキリストが語った言葉や思想が教典たる旧約聖書、新約聖書に散りばめられている。
その教典には、
「人は本来永遠に生きられるが、生まれながらに罪を背負って生まれてくる(=原罪)そして、その罪の罰こそが死である」
「人は生まれながらにして神から不可侵の権利を与えられている=人権」
という思想が書かれており、この思想をすべてのキリスト教とは共有している。個人と神というどこまでいっても1対1の関係の中に人間は存在している。
キリスト教徒は原罪の思想のもと、人間は本来ずっと生きられるものだが、神の意志によって罰を与えられて死ぬ。神が生を与え、死を与える、という発想をもっている。
また、人権は神が与えたもので、不可侵のものである。という発想もある。
つまり、神が死を司り、神が人権を与えているのに、人が勝手に人を裁いて殺すのは、人権侵害であって、原罪の発想にも反する、という思想がキリスト教徒の根底にある。
上述の通り、文化的(思想的)背景からキリスト教国は概ね死刑に否定的になりやすい素地があり、あとは歴史的な背景をもとに死刑の有無が分かれている。キリスト教国であるアメリカは歴史的な背景もあり、死刑制度を維持しつつも、徐々に廃止の州が増えつつあるのが現状である。
また、韓国はキリスト教徒が大勢を占めており、同国が死刑を実質的に廃止したのも、この思想が根底にあることを理解すれば全く違和感のない話なのである。
一方の日本はどうだろうか。
日本人には独特の死生観がある。その死生観の象徴が、桜である。桜は咲いているから美しいのではなく、儚く咲き、静かに散りゆくからこそ美しいと日本人は感じる。
更に、切腹の文化に代表される通り、苦しみながら死んでケジメをつける、というのも日本人の死生観一つである。生命の儚さを認識し、潔く生きることへの美学が根底にある。
また、日本にはキリスト教のような国教がない。長い歴史の中で、神道や仏教が入り乱れてきた。神道の根底には八百万神(やおろずのかみ)の発想があり、小さな花にも神が宿るというアニミズムの精神がある。生命は神から契約関係で与えられたものではなく、自然の営みの一部に過ぎない。
つまり、人間が人を裁き、人を殺めることも自然の営みの中にあり、社会的な目線の中でケジメをつける、ことは何ら不思議ではないという思想が前提としてあるのが、死刑を廃止している欧州諸国との大きな前提の違いである。
騒ぐアムネスティとその根拠
上述の通り、文化的な前提が異なるにも関わらず、イギリス発祥のアムネスティは人権擁護を錦の御旗として、あらゆる国の文化的な背景を無視して、死刑廃止を主張している。今回のオウム真理教の7人の死刑も強く非難している。
アムネスティが非難する根拠は死刑実施には犯罪抑止効果がないという点にあり、何より彼らが信奉している基本的人権に反している、として死刑を非難している。
犯罪抑止効果があるか無いかについて、反対派は色々な検証データや、死刑廃止国の殺人率推移データなどを取り上げては効果が無いと主張している。然し、データの切り取り方は調査方法によってどのようにでも変化させられるので、個別のデータを論ってもあまり議論は収れんしていかないだろう。
(例えば、5人殺した人間はどうせ死刑になると分かっているので、6人目を殺すのをためらわない、だから死刑は犯罪抑止に効果がない、とかが死刑反対に使われるロジックの1つだが、極端すぎてあまり意味のない議論である)。
死刑反対の大きな前提となっている基本的人権の前提の違い
アムネスティの主要勢力は欧米であり、彼らが前提としているのはキリスト教である。
繰り返しになるが、彼らの多くは一神教の信者であり、神と契約した個人が、原罪の思想のもと、死は神から与えられる罰であり、基本的人権は神から与えられた絶対的な権利、という発想を持っている。
一方の日本は八百万神に囲まれ、自然の摂理に生き、島国の中に形成されたムラが大きくなって共同体を形成している。国際化した社会においてネガティブな意味を含むが、村八分、といった言葉にも代表される共同体精神があり、悪い事をしたらお天道様が見ている、なんて発想がある。
また、隣の人に見られたら恥ずかしいようなことをしてはいけない、といった感覚からして、和の精神が身体に染み込んでいるのである。
例えば道端のごみを拾わなかったり、老人に席を譲らない時、神様に謝る人が日本にどれだけいるだろうか?日曜にミサに行って、小さな罪を告白するだろうか?それよりも、周りの人の視線を気にするのではないか?恥ずかしいかどうか、が真っ先に、そして最後まで重要なのではないか。
このように、日本は共同体の中に生きる人間が存在するものの、神と個人という1対1の関係がない。基本的人権は神様から与えられたものではなく、共同体(国という暴力装置)が保障してくれる権利との位置づけになっている。
つまり、基本的人権の位置づけがキリスト教を前提とした国々と全く違うのである。
キリスト教徒と日本人の罪と罰の違い
先述のとおり、キリスト教徒は原罪を抱えて生まれ、神罰によって死ぬという思想を持っている。実際そんなこたぁ起こんないけどね、と言いつつも、キリスト教徒はその概念を誰もが共有して心の底に持っている。
一方、日本人にとっての死とは自然の摂理の一部であって、潔く生きる事こそが死ぬこと、生と死が表裏一体の関係にある。また、罪とは共同体の中における罪であって、恥ずかしい事であって、お天道様(日本人が知らずと意識している公衆の目)に見られてはいけないような行為が罪なのである。
つまり、究極的に罰せられるのは、神に罰せられるのであって、公衆ではない。一方の日本は共同体であり、公衆がその主体である。
日本の基本的人権とは何か
日本においても基本的人権は絶対不可侵の権利ではあるが、神に約束された権利ではなく、共同体たる国家が保証している権利である。そもそも基本的人権とは曖昧だが、キリスト教国のように、神と契約した仲間が守るのでなく、共同体が守るものだから、共同体の存続が当然ながら前提となる。
日本的発想では、共同体を存続させるには、構成メンバーはルールを守る必要がある。ルールを守らせる観念的なストッパーがお天道様の目であり、人様に恥ずかしい事を出来ないという感覚である。
つまり、日本の基本的人権とは、共同体の維持・存続が絶対的に前提にあり、その組織の掟を守る限りにおいて保証される権利ともいえる。キリスト教国のように神様は関係ないのである。
それでは、日本の国家という共同体が個人を死刑に処しても良いものだろうか。答えはイエスである。国家という共同体を維持・存続する為には掟があり、その掟を守らせる事はメンバーが所属する上での絶対条件である。前提に宗教が無いのだから、神様と契約してるんで嫌です、やめたほうがいいです、なんて発想は通用しない。
犯罪の抑止効果云々より、むしろ、日本においては共同体を揺るがす行為を処罰する為の刑といったほうが適切だろう。
共同体には所属メンバーの感情が必ず介在する。その感情とは罪を許せない、という想いである。共同体を揺るがす行為を許せない、という感情は共同体の掟を形作る。遺族やその親戚の感情は共同体の掟の重要な前提となる。
更に、共同体は実利的でもある。罪人を生かし、監視しておくのには莫大なコストがかかる。よって、共同体は罪人を死ぬまで生かす事は許容しないだろう。仮に1つのムラで、共同体のメンバーを惨殺したものがいて、メンバーはその罪人を生かすお金を払うだろうか?間違いなく払わない上に殺せというだろう。
以上のとおり、共同体は感情的にも、実利的にも、殺人を許容しない。
具体例に落とし込んで考える人権とは
神と契約していない日本人は共同体に生きている。そんな中でアムネスティが人権を盾に死刑廃止を訴えたとしても、それは日本の成り立ちから生ずる考え方とは全く異なる。
そうは言っても何となく正しい気もする、基本的人権とその前提となる思想は人間的に先進的な考え方をしている、と思うなら、考えてほしい。
自分の親が殺されたとして、その罪人を生かしておくのに毎日1万円かかるとしよう。そして、その1万円をあなたが支払うとすれば、あなたは納得するだろうか?
そして、国はあなたにこう言う「人を殺すのは人道に反しています。基本的人権があるんです。神様と人の誰にも否定できない関係性の中で、人が人を裁く権利はありません。でも、この罪人を生かすには金がかかります。この人はいつか悔い改めるでしょう」。
恐らく誰もが感情的にも、金銭的(実利的)にも受入れられないだろう。
この現実をアムネスティは受けるべきと言っているのである。社会の生産性が向上して、人を生かしておくのにかかるコストが低くなってきたから、罪人の人権・・・という発想が出てくるが、上述のとおり、常に根源的な話に立ち返るべきである。
おわりに
命が尊く、国家が人の命を奪うべきでないなら、先ずは戦争という虐殺をやめるべきだろう。また、生き物の命という観点で言えば、動物も植物も何もかも、口にするべきではない。更に言えば、資本主義という貧富の差を生じさせる不公平なシステム自体が基本的人権の侵害である。
そもそも、人間がこの世に生きる限り、あらゆる生命を犠牲にしている。また、人と人との関係性の中で上下が生まれるのは必定である。
これを神という名の幻で包み隠そうとも、現実は目の前にある。この現実から目を背けず、夫々の国が背負った歴史と文化を基に、その時代に最も適切な罪と罰の形を模索すべきだろう。
世界という名の共同体はあまりに広い。お天道様の見方は、急には変わらない。時間をかけて、ゆっくりと、日本なりの基本的人権を育み、その中での罪と罰の在り方を考えていくべきではと思う次第である。
以上
大企業に勤務するサラリーマンで、M&Aを手がけたり、世界を飛び回ったりしている。ぬるま湯に浸かって、飼い慣らされているサラリーマンが大嫌い。会社と契約関係にあるプロとしての自覚を持ち、日々ハイパフォーマンスの極みを目指している。歴史を学ぶことは未来を知ること、を掲げてしばしば世界を旅している。最近は独立して生きる力を身に付けるべく、資産運用に精を出している。好きな言葉 「人生の本舞台は常に将来に在り」
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