幸せとは何か

2018年4月18日処世術

また重くるしいテーマできたなーと思う人も多いだろう。

そんなの人それぞれだし、考えても意味ないよ、と思うかもしれない。

人それぞれであることは間違いないのだが、実は日本を含めた自由主義・民主主義の国は、生命、自由、幸福の追求を個人の権利として、国の前提としている。

国が幸福の追求を個人の権利として、明文化して認めている、ということは、明文化された対象である 幸福 とは何かを明らかにせねば、その権利を守り得ない。

例えば、財産の定義がなければ、財産は権利である、と言っても守りようがないのと一緒である。

それでは幸福とはなんだろうか。

これは人類の最大にして最後の問いであろう。

例えば、お腹が空いている時にご飯を食べれば空腹が満たされ、充足感を得られる。

高級な寿司を食えば、美味しいと感じる。

おそらく、これらは幸福な状況と言えるだろう。

また、宝くじが当たったり、資産が増えたら嬉しいと思う、これも幸福だろう。

さらに、疲れた時にベッドに入って休む、そこで得られる安心感や安らぎはまさに幸せといえよう。

では、何かを手に入れたり、体が満たされることが幸せかというとそうでもないのが幸せの難しいところである。

例えば、泣き叫ぶ子供をなだめ、オムツをかえ、嫌がるのを叱りながら塾に通わせる。もはや子供の奴隷のような状態だが、親はこれらの過程で幸せを感じる。

短期的に大変だったり、苦しかったりしても、子供の成長がたまらなく幸せなのである。

斯様に幸福とは複雑なものである。幸福の形は色々あり、人それぞれある。

だが、永遠に続く幸福のシーンというのは存在しない。

なぜなら、幸福を追求する限り、幸福を得られるシーンの終わりは必ず訪れるからである。

空腹を満たそうと、子育てしようと、何をして幸福感を得ようとも、必ず幸福感を失う瞬間がくる為、永遠の幸福は得られない。

それでは、永遠の幸福とはなんだろうか。

幸福を求めると人は必ず不幸を経験する。であれば、逆説的だが、幸福を求めなければ人は安息を得られるのではないか。

実際に、この説を説き、のちに体系化されたのが仏教である。

人は欲を持つ生き物であり、その欲には際限がない。金持ちはもっと金を求め、恋愛ではより良い人と出会う事をいつの日か願う。

健康に生きていれば、病気を恐れ、病気にかかれば死を恐れる。

身近な充足感を得たいという欲望、生きていたいという欲望、あらゆる欲が絶え間なく襲ってくるが、それらを全て満たすすべは存在しない。

人は必ず老いがきて、致死率も100%なので、欲望は決して満たされない。

生まれてから死を迎えるその日まで、虫も動物も人間も、短い時間、この世で足掻いているに過ぎないのである。

よって、欲に塗れることを止めること、欲望の渇愛を断つことこそが、真の充足感を得るすべであり、これぞ仏教でいう解脱である。

仏教の真理とは、煩悩を捨て去り、真の安らぎに達することにあると思う。これは、さまざまな宗教で珍しい。

殆どの宗教は、死んだら苦しんだりするけど、生きてる間に善行重ねたら苦しみません・・・的な話が多く、要は煩悩の塊の進化系といえよう。

その教義を広める為の方便に過ぎず、馬鹿馬鹿しい限りである。

例えばキリスト教では、イエス様が色々許してくれるとか、心が広い、とか教徒に教えたりするが、はっきり言って意味不明である。

2000年前に生きていた人間に、なにかを許してもらう筋合いなどない。

だが、仏教の教えはブッダの個人崇拝ではなく、人が本当に安らぎを得る方法を説いている。誰が偉いとか神さまとかではなく、まさに究極の生き方追求といえよう。

だが、ブッダの時代も終わるかもしれない。

ブッダの考えは、人は死ぬ、老いて苦しむ、という前提に基づいているが、人が死なず、老いたり病にかかることがなくなったらどうだろうか。

医療が極限まで発展し、細胞を再生することで、いつまでも若くいられるようになったら、人は老いや病の恐怖から解放される。

死に至るまでの間に、幸福ではない時間がくることもあるので、渇愛を全て捨てされ、とブッダは説くが、永遠の命が手に入り、病気の恐怖がなくなったらどうなるのだろう。

それでも、好きになった人から好かれない、という状況は必ず起こるし、やはり渇愛はとどまることを知らない。永遠に生きようとどうしようと、渇愛がある限り、人は幸福ではない状態を避けられない。

ここで、私は渇愛するのを止めるべき、という結論は出さない。

むしろ、渇愛すべきである。常に求め続け、幸せだったり、不幸せだったり、することはあるだろう。

だが、幸せと不幸せのギャップこそが、人生なのだと思う。

ずっと幸せはありえないし、欲望を捨てさるなんて人間である限りできない。

だからといって、何かにすがっても本当の幸せには至らない。

自分の人生は自分が決める、その覚悟を持って、幸せと不幸せのジェットコースターに乗り、その時間を楽しむこと、これこそが究極の幸福であると、私は思うのである。

以上


この記事を書いた人
りーぶら
りーぶら30代、都内在住、男性。

大企業に勤務するサラリーマンで、M&Aを手がけたり、世界を飛び回ったりしている。ぬるま湯に浸かって、飼い慣らされているサラリーマンが大嫌い。会社と契約関係にあるプロとしての自覚を持ち、日々ハイパフォーマンスの極みを目指している。歴史を学ぶことは未来を知ること、を掲げてしばしば世界を旅している。最近は独立して生きる力を身に付けるべく、資産運用に精を出している。好きな言葉 「人生の本舞台は常に将来に在り」

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